DiaryYumiko Sakuma

邦題の怪

DiaryYumiko Sakuma
邦題の怪

誰がどうやって決めているのだろうか、といつも思う。映画の邦題の話である。

先日、津田大介さんがニューヨークに来たときに、我らがAOC(アレクサンドリア・オカシオ・コルテス)が昨年、ニューヨークの準備選でベテラン議員を倒そうとする様子を追いかけて撮った「Knock Down The House」というドキュメンタリー映画の話をしていたときのこと。一緒にいた岩本室佳さんがネットフリックスのアプリを開いて教えてくれたには、日本では「レボリューション 米国議会に挑んだ女性たち」というタイトルがついている、と教えてくれた。革命・・・・・そうですか、革命ですか・・・・

欧米で成功したアジア人がテーマになっているはずの「クレイジー・リッチ・エイジアン」から「エイジアン」が取られたことに唖然とした話は、前にも書いたけれど、そろそろこういうのはやめてもいいと思う。

と書きながら、「こういうこととはなんだろうか」と自分で考えた。そして思ったのは、わかりやすくするために、チージー(くさく)したり、幼稚にしたり、和製英語を使ったり、勝手にまったく違うものにしたりすることである。

が、私がこう思うのは、できるだけ作った人の意図に沿うべきである、という考え方だからだろう。売ろうと思ったら、まったく別の事情から邦題をつけるという考え方もあるのだろうと思う。が、こういうことが、長期的な啓蒙の妨げになってしまうと思うのだ。まあ、こういう意見は少数意見かもしれない。どうせ海外の遠くの世界のことだろうから。

備忘録:「ダサい邦題」「タレントでPR」、熱心な映画ファンが“無視”される事情