武田砂鉄さんとのトークで考えたこと
武田砂鉄さんとトークをした。一度、武田さんのトークに言って、それも挨拶もせずに帰ったので、ほとんど面識のない状態でお願いしたトークは、なかなかおもしろいものになったと思う。
武田さんの文章は、世の中で起きている(特にメディアの論調や政治家の言論)「おかしいこと」に対する違和感の表現がとても好きだ。こういう人の文章を読んでいると、同じように「おかしい」と思っても、躊躇してしまう。自分はボキャブラリーが大変に貧困で(それをボキャ貧という死語を使っていったので、その後、武田さんに散々いじられることになった笑)、怒りの表現が「ムカつく」とか「ダサい」とか稚拙になってしまう。あれこれ考えているうちに、納得できない文章を上げるくらいだったらあげなくていいかなと思ってしまったり、バタバタするうちに忘れてしまったりする。が、それではダメなのだ。武田さんにも「ボキャ貧でも言ったほうがいい」と言われ、反省した。
質問者から「無名の自分に何ができますか」という内容があった。ここしばらく「言いづらい」「声をあげづらい」ということをよく言われる。「〜づらい」という気持ちについて考えた。「〜づらい」というのは、恐怖感の一種だ。声を出してみたら意外に辛くないかもしれないよ、と思う。そして最近思うのは、私が怠慢だったり、みんなが「〜づらい」と思って声を上げないことが、声を上げている人たちを心細くしてしまうのではないかということだ。だから、がんばって声をあげていこう。せめて声をあげている人に寄り添わなければ、そう思うのだ。
声を上げても何も変わらない、と思ってしまう人は多いと思う。無力感もある。けれど、最近、そんなことはやってみないとわからないという気持ちになってきた。Amazonがやってくる、という状況をニューヨーカーたちがひっくり返したことを見て勇気を得た。週刊SPAの「ヤレる女子大生ランキング」に立ち上がった女子学生たちの姿に勇気をもらった。そして変えることができなかったとしても「おかしい」という声が記録として残らないとダメなのだ。そうでないと、権力者のやりたいようにやられてしまう。
そんなことを書いていながら、辺野古基地をめぐる沖縄の住民投票の結果が入ってきた。52%以上の人が投票に行って、反対者が多いことを見せつけた。沖縄、うらやましい。といつものように思いそうになった。羨んでるだけではだめだね。