自分は何者なのか問題(沖縄にて)
採音家/文筆家の宮里千里さんについて、石垣島をベースに豊年祭を周っている。千里さんのフィールドワークにくっついて周っているだけで、自分ひとりでは決して見ることのできない祭りの側面を見ることができる。撮影も録音も禁止の神事を、普通だったら絶対見ることのできない場所から見ることができた。この旅の話はおいおい。
千里さんが私を人に紹介するときに「この人はね、アメリカに住んでいるんだよ」という。そんな遠くから!?という反応のときもあるし、なんでまたアメリカに?という反応のときもある。西表島で石垣金星さんのお宅にお邪魔したときに千里さんがいつものように紹介してくれたのだが、金星さんの反応は「伝統も文化もないところになぜ?」というものだった。「世界中から、いろんな文化を代表する人たちがやってくるから」と答えたのだが、だんだん自分のなかにも「なんでまたアメリカに住んでいるのだ」という気持ちが芽生えている。
そういえば、数日前にも高史くんからも「自分ではアメリカに住んでいるという意識なのか、日本に住んでいるという意識なのか」という質問を受けたなあ。自分ではやっぱり、ブルックリンに住んでいる、という意識なのだと思う。それは、自分だけの小さなお城があるのがブルックリンだから。けれど、もう少し広く考えると、自分はどこにも住んでいないという気持ちもある。いつ、どこにいても、「あと少ししたらまた旅立つ」という気持ちで生きているから。加えて、二つの文化を二つの言語を行ったり来たりすることについて考えている。もちろん楽しいし、刺激いっぱいだし、こんな人生に文句はない。けれどこれを長くやることには心理的なプレッシャーがあると、最近、急に思うようになってきた。この問題、もう少し考えてみようと思う。
備忘録:自分は根無し草か、自由か(The Guardian)