福沢諭吉と妬みカルチャー
先日、ご飯をご一緒した響心総理くんという人がこんなことを教えてくれた。
「福沢諭吉は『天は人の上に人を作らず』とも言っていますけれど、日本人の妬み精神についても言っていたんです」
昔々に図書館で借りて読み、なんとなく理解をしたような気になっていたのも、はるか昔の思い出である。妬みのことなんて書いてあったっけ?
Amazonを見てみると、ずいぶんいろいろな現代語訳が出ている。とりあえず、ベストセラーのちくま文庫版をぽちりました。
読み始めてすぐわかった。まだ世の中に出ていない若造には実感として理解できないだろうと思われることがたくさん書いてある。社会人になってから(また)読むことに意味があるのだ。そして今の時代にも当てはまる(と言うべきか、福沢諭吉が見ていた世界から日本人の精神性が進化していないと言うべきか)ことがわんさかある。
「およそ人間には、いろいろな欠点があるものだが、人間社会において最大の害があるのが、『怨望(他人の幸福をねたんだり、うらむこと)』である」
「怨望が、人間社会の中で害があることは以上に見たとおりだが、それが生まれた原因は、と考えてみると、それはただ『窮』の一言に尽きる。この場合の『窮』とは、困窮とか貧窮というときの『窮』ではない。言論の自由をふさぎ、行動の自由を妨げるというように、人間の自然の働きを行き詰まらせる『窮』なのだ」
長年、日本人の金持ち叩きはどこからくるのかと思っていたが、根が深いのう。金持ち叩きやら、不倫叩きもあれ、妬みの一種と考えると納得である。それにしても金持ち叩きがないほうが、国の経済力にはプラスである。どう考えても。
自分にだって若いときにはあったんですよ、それなりに。妬みというか、羨み。胸が大きい人や鼻が高くて美しい人に。そして今だってときどき、人の文章力に嫉妬めいた気持ちを抱いたりすることもなくはない。が、素敵だなあと思うしかない。自分にはこれ(自分の芸風)しかできないのだ!自分の力を磨こうと思うことには生産性があっても、妬みに生産性はないのである。そしてそれがどれだけ自分の精神を解放してくれたことか。解放されると、楽ですよ~、と妬んでしまう人には伝えたい。
カルロス・ゴーンさんの件も、きっといろんな段階における妬みがあったんだろうと想像する。
備忘録:剛力彩芽が叩かれる背景に、日本人の国民性(ITmedia ビジネス)
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